偏在と遍在、なにが在る
「偏在と遍在、まちがえたぁ!」
と、あわてたところから、気づきがあった話しです。
お暇な方だけ、どうぞw
以前、赤松瞳さんについての本を紹介したとき、赤松さんが「神とは、偏在している愛だと思います」と表現できるところがすごいなと、ずっと心にひっかかってる話を記しました。
でも本のp109.を見返したら、違った。
正しく記載されていたのは、遍在でした。
あらあら、
いやんばかん、
意味がずいぶん違うやないのw
(上記の記事の問題部分、修正しました😅)
偏在=偏って存在すること
遍在=どこにでも広く存在すること
「偏在」が局所的で、
「遍在」が広範囲なのよね。
ふむふむ。
今日「ホレソコ、みえるところにあるから」みたいなメッセージをもらってたんですよ、上に。
「どこー?」
「ホレホレ、ソコに」
みたいなやりとり。
その時点では何のことだかサッパリわからず。
まぁ近々わかるやろ、くらいな気持ちでいました。
そんでさっき、日付変わる頃合にエネルギー風呂から上がってボーッしていた時に、パキャンと卵の殻が割れるような気づきが。
あれ?偏って存在してるの、うちらじゃね?
この時点まで、本に記されてた赤松さんが言ってたことは、偏ってる方の「偏在」と思い込んでいたものですから、
「なんで神様、密なところと過疎ってるところがあるの?ナンデ?」と薄らぼんやりした疑問を持ったままだったんですよね。
それはそうw
p109.をめくって漢字が「遍在」であることを確認し、広くどこでも存在する方がカミであるってことがわかると同時に、深まる確信。
なぁんだ、そうか、そうなのか。
「遍在」と「偏在」。
どちらも同じ「存在すること」をを指していて、
広くあまねく「遍在」している愛が神(カミ/非物質)ならば、
局所的に密に「偏在」している愛が私たち(モノ/物質)じゃないかと。
じゃぁナニが、偏ったり偏らなかったりして、存在してるのサ。
そりゃ、愛だ。
愛ってなにサ。
そりゃ間(あいだ)。
…都々逸か?!🤣
これ…これ…この「あい、だ」の「あい」って、
人間の「間」のことだよねぇ…
ずっとなんだヨとおもってたのよ。
みんな不思議に思ったことない?
私はずっと不思議に思ってた。
なんでヒトのことを「人」の「間」と書いてニンゲンと呼ぶのか…
この愛と呼称するしかない部分で「通じる」ものがあってですね。
行き来しているものといいますか。
願いが「届く」ってやつじゃなくて、
祈りが「通じる」ってやつ。
それが「意識」と呼ばれるものでもあり、
フウチの探索結果であり、
メッセージであり、
奇跡的な出来事であり、
あたかも準備されたような出来事であり、
人の縁とか、命とか、
そういうもので編まれた模様とか、
すべてを指すものだったりするんだと思うんです。
この辺に、あるんだよなぁ確かに、
もうちょいつかむことができたなら、
もーちょい進める気がするんだけどな…
えいっ
そりゃっ
なにをいまさら、と他人にいわれるような気づきでも、自分でしてみるとこりゃまたびっくりなんで、思わずここに書いちゃった。
いつかどこかで誰かが言っていたようなことにみえるだろうけど、自分の体験で起こったときの、この実感たるや。
ねー、みんなぁ!
コレ、オモロすぎるでwつかまな損やわwww
なーんて、まるで遊園地の遊具に乗るのを誘うが如く、おもわず誘いたくなってしまう。
そんな訳で、ひとからみたら、風に揺らぐ柳の葉を掴もうと不様にジャンプし続けるカエルのような姿を、きょうも皆様の前に晒している訳あります。サーセン
<終わり>
<おまけ>
あっ、今もいっこ気がついた。
人偏だね「偏」の漢字、左側の「イ」の部分w ワハハ